自分は人生で何を大切にしているのか?
こんにちは、にいちゃんです。
今日はおうちで焼き肉をしました!
とても美味しかったです、お肉 °˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°。
今日はさらに、大好物のアメとグミを手に入れることもできたため、とても満足な一日でした。
さて本題に入りますが、私が最近読んでいる本で、八木仁平さんの『世界一やさしい「やりたいこと」の見つけ方』(2020, KADOKAWA)という本があります。
まだ途中までしか読んでいませんが、とても読みやすくて分かりやすい本です。
八木さんによると、「やりたいこと」を見つけるためには、
①自分の価値観
②自分の長所
③ 自分の好きなこと
の三つを明らかにし、それらを掛け合わせて考えたら良いそうです。
そして今私は、「①自分の価値観」を見つけ出すための質問に答える作業をしている最中です。 このワークを通して、最終的には自分の「やりたいこと」を見つけることができたらいいなと思っています。
正直なところ、私は自分の価値観について本当に疎いです。
一言で言うなら、「自分がわからない」という感じです。「自分は人生で何を大切にしたいのか?」、己に問いかけても全然答えが思い浮かびません。
私の場合には、自分がどのような価値観のもとに行動しているのか(また、したい・すべきだと考えているのか)が自分で分からなくなり、精神的な不安や混迷に陥ることがしばしば起こります。
おそらく、主観的だから、頭で考えすぎるから、または、他者との関わりが少なく、他者との差異を意識することで自己のアイデンティティを確認する機会が少ないから、など原因はいろいろあるのだと思います。
しかしその一方で、わたしは友人や知り合いと会話する時には、その人がどのような価値観を持っているのかを、おおよそ掴みとることができることが多いように思います。
というのも、その理由として
①そもそも他者については、客観的な視点から捉えることができるということと、
②私の特徴として「なぜこの人はこのように思う・考えるのか?」、「なぜこの人はこのような行動をとるのか?」を理解し、納得したがるという性質があること
の二つがあるからだという風に思います。
ですから逆に、誰か私の「人生で大事にしてそうなこと」をピタリと言い当ててくれたりはしないだろうか……なんて思ったりもしてしまいます。
他人はおそらく、私の行動からは「自分が傷つけられることへの恐れと回避」を存分に見て取ることができるのではないかと個人的に思っています。(あくまでも予想ですが)
しかし、「それが自分の人生で大切にしたいことなのか?」と問われれば、答えは「否」です。
というのも「自分が傷つけられることへの恐れと回避」は、自分がとらわれている心理であるとは言えるのですが、「価値観」とは呼ぶには性質的に消極的すぎるもののように自分にとって思えるからです。
このように、「自分は人生で何を大切にしているのか?」という問いに対するわたしの答えはまだ出ていません。
八木さんが選び抜かれた「価値観を見つけ出すための質問」(本に載っています)を活用することで、いままで不明確だった「自分の価値観」を見つけ出すことができれば、私にとってこれ以上嬉しいことはありません。(就活ももう目前ですから)
そんなこんなで自己分析、頑張ってみたいと思います。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
過保護は子どもの自尊心を傷つける
こんにちは、にいちゃんです。
毎日暑いですね。
最近はコロナが再び流行りだしたのもあって、ほとんど外出していません。
私の大学は前期がすべて遠隔授業だったのもあり、すごもりライフにも慣れてきました。
一人の時間がたくさんとれるので、引きこもりは引きこもりで、それなりに楽しいものです。とはいえ、正直なところずっと家にいなければならない生活も、最近イヤになってきました(笑)
というのも、主な要因として(実家住みなので)親と一緒に過ごす時間が必然的に長くなるからです。精神的に親から自立できているなら、一緒にいる時間が長かろうが、そんなことはあまり気にならないのかもしれませんが。
私の親は、恐らく過保護、だと思います。
そして今でも、私は己の心理の大半の部分が親に支配されていると感じています。
母子の間における愛着関係が、癒着している状態、という感じでしょうか。だからなのか、親と過ごしていると「甘える」気持ちが前面に出てしまう一方で、それと同時に強い不安・おびえ・無力さを感じやすくなってしまいます。
ということで本日は、親の過保護な養育が、子どもに与える影響について書こうと思います。内容は、先日拝読した論文からの引用になります。
参照した論文はこちらになります。
島義弘「親の養育態度の認知は社会適応にどのように反映されるのか:内的作業モデルの媒介効果」(『発達心理学研究』第25巻第3号, 2014, pp. 260-267. )
島(2014)によると、親を過保護であると認知している大学生ほど、内的作業モデル*の ”不安” が高いのだと言います。
*内的作業モデル(internal working model)とは、J. Bowlby(1907-1990) が提唱した概念。
対人関係において、他者の解釈や自己の行動を選択する際に、無意識的に参照しているモデルのことであ り、いわば、対人関係におけるその人にとっての世界観のようなもの。例えば、”安定, ” "不安, " "回避, " など。
内的作業モデルは、親などの重要な他者との関わり合いの中で形成されますが、そのモデルはその後の対人関係においても適用されるようです。
親が過保護である(という認識の)子どもについて、島(2014)の考えをまとめると以下のようになります。
○内的作業モデルの ”不安”が高い
○子どもは自律性や自主性を阻害されたという感覚を抱く
○親密な関係の中での自己に対して不安を抱くようになる
・子供は自分自身を信頼することができない
・自分が信頼される存在であると信じることができない
○受動的で消極的な態度が形成される
さらに、内的作業モデルの ”不安” が高いほど、自尊感情が低く、傷つけられることを回避する傾向にあるとのことでした。
このことは、過保護な養育が子どもに、自己価値への疑念や、自分が他者から受け入れられることへの疑念を抱かせることを示唆するように思われます。
この結果は私にとって、非常に興味深いものでした。
私は不安の感じやすさを自覚してはいましたが、過保護な養育のことを「親から大切にされて、恵まれた環境で育ててもらった(=親に非などない)」という風に認識していたので、まさか親による育て方が原因で、強い不安を感じるようになるだなんて思ってもみませんでした(笑)
他にも要因があるかとは思いますが。そのことにについてはまた後日、書きたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「幼さ」の憂鬱、その構造
こんにちは、にいちゃんです。
今回は、高校時代に感じていた自身の「幼さ」からくる憂鬱について書こうと思います。
【目次】
1.自分の感じていた「幼さ」
当時、私が日ごろから感じていたことは
「周りの学生は大人なのに、どうして私はこんなにも幼稚なのか」
「私は人間として大切なものが欠けているのではないか」
ということでした。
具体的に、私が感じていた「幼さ」とは、
・自主的に勉強の時間を作るなどの、自己管理ができない
・周りの人への配慮が欠け、自分のことしか考えていない
・他の学生と友好関係をうまく築くことができない
・自校の伝統、「不羈独立」「自由」などの精神に魅力を感じない
・学校・クラスへの帰属意識のなさ
・不平ばかりを言い、主体的にはたらきかけることをしない
・社会問題に対する関心も低い
などです。
つまり私は、自分がどう思われるかを気にしてばかりで、つねに受け身で主体性がなく、自己管理能力もない。他力本願な「甘ったれ」であると感じていたのです。
2.「幼さ」からくる劣等感
それに対して周りの人たちは、豊かな対人関係を築けている、自立している、自己管理能力が高い人が多かったのでした。
私が通っていた高校は、いわゆる進学校でした。
あくまでも主観なのですが、なぜだか勉強ができる人は、人間性のレベルも高い傾向にありました。今思えば、私はとてもいい人たちに恵まれていました。
しかしながら、まわりが優れた人であればあるほど、自身の幼稚さを痛感することも多くなります。そのたびに私は、「自分は人間としてダメなのだ」と、劣等感にさいなまれるようになりました。
自分が非力であること、怠慢であること、自己中心的であることなどを悔やみ「なぜ自分はこうなのだろう……」と、くよくよと……(笑)
しかしその一方で、「このままじゃいかん!」とも思っていたのです。
3.「幼さ」から脱却できないその原因
「自分を変えるぞ!」と、意識の上ではそう考えていました。
「もっと大人に」、「自立した人間に」、「他者をおもいやれる人間に」
行動にも移しました。
例えば、他人に関心をもとうと、級友の誕生日を祝ってみたり、
自立した人間になるために、大学受験に向けて自主的に学習計画を立てたり、
他者との協調性を身に付けるために、学校行事のリーダー役に挑戦したり。
しかしながら、そうしよう、そうしよう、と頭だけで考えて動いてみても、なかなか自分の「甘ったれ」心理を根本から変えることはできませんでした。
現に、大学受験は自分で自分を律することができずに、学習を進められないまま、受験を終えてしまいました。
どうして「幼さ」からは、なかなか脱却することができなかったのか?
重要なのは、このような「甘ったれ」「幼稚さ」は、本人の意志のみによって変えられる問題ではないのだということです。
これはあくまでも私の考えなのですが、
「幼稚さ」の原因は、その人の根底にある「不安」の強さや自己肯定感の低さ、そして、甘えていられる環境にあるのではないかと思います。
4.「幼稚な自分」を責めると悪循環に陥る
その人の「不安」の強さや自己肯定感の低さとは、一言でいえば、「自己価値への疑念」のことです。
「幼稚さ」の原因が「自己価値への疑念」にあるのだとすれば、その人にとっての「自己価値」を上げることができなければ「幼さ」から脱却することはできません。
したがって、自らの幼稚さを悔い「自分はダメなのだ」と自分を責めれば責めるほど、自己価値の認識は低下していき、「幼さ」からの脱却からは遠ざかってしまうということになってしまいます。
「幼稚さ」→「自分を責める」→「自尊心が下がる」→「幼稚さの増強」→「自分を責める」→‥‥‥
このように、一度「幼さ」の憂鬱にハマってしまうと、簡単には抜け出すことのできない悪循環に陥ってしまう可能性があるのです。これが、「幼さ」の憂鬱の構造なのではないでしょうか。
おわりに
私は今もなお、「甘ったれ」から脱却できていないと自覚しています。
それでも、自尊心を少しでも高めて、自立した人間になれるよう、日々小さな成功を積み重ねることを意識したいものです。
なぜ「幼稚さ」の原因が、「不安」の強さや自己肯定感の低さ、甘えていられる環境にあると考えているのかについては、今回書くことができなかったので、またいつか書けたらいいなと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
神聖かまってちゃんは「実存」音楽だ
こんにちは、にいちゃんです。
みなさんは、神聖かまってちゃんというバンドをご存じですか?
2008年頃から活動している、インターネットポップロックバンドです。
作詞作曲は Gt. & Vo. である、の子さんが手掛けています。
楽曲では、
「ロックンロールは鳴り止まないっ」
「フロントメモリー」
「夕方のピアノ」
「22才の夏休み」
「Os宇宙人」
「夕暮れの鳥」などが有名だと思います。
神聖かまってちゃんの代表曲
神聖かまってちゃん - ロックンロールは鳴り止まないっ 2015.9.5 BAYCAMP2015
神聖かまってちゃんと言えば、
いじめや躁うつ病の経験をもとにした、過激な歌詞や、
生放送の音楽番組で奇行に走って、放送事故をおこすなど……
曲の内容にしても、の子さんの言動にしても、かなり賛否両論あるバンドなのですが、私はこの神聖かまってちゃんというバンドが好きです。
というのも、
神聖かまってちゃんの曲は、己の存在が、他の何人にも決して代わることのない、唯一無二の存在であること、
そして、私たちが、一度きりの自分の人生という重荷を引き受け、自分の足で歩んで行かねばならない存在であるということを、私たちに強く訴えかけてくれるからです。
神聖かまってちゃんの曲には、「希死念慮」が感じられるもの(「死にたい季節」「天使じゃ地上じゃちっそく死」など)がある一方で、
の子さんの歌詞や生き様からは、自分の人生を全力で生きてやろうとする、衝動・気迫を感じることができます。
言ってみれば「地べたをはってでも、孤高に生きてやる」という感じです。
私たちは日々を、社会に同調することでなんとなく過ごしています。
そんな私たちに対して神聖かまってちゃんの音楽は、
「本当にそれでいいのか?」
「一度しかない人生、今のままで終わっていいのか?」
と、そのつど問いかけてくれます。
なぜならば、の子さんの曲からは、
生きる上で人間はみな「孤独な存在」であるのだという自覚と、
唯一無二の人生を引き受けることに対する覚悟が、垣間見えるからです。
誰も自分の人生に責任などとってはくれない。
死ぬときは、誰もがひとりで死んでゆくのだ。
そのようなメッセージを、神聖かまってちゃんの曲からは受け取ることができます。
したがって神聖かまってちゃんは、少なくとも私にとっては
「実存」への意識を呼び覚ましてくれる音楽だと思うのです。
神聖かまってちゃんを聴けば、きっと衝撃があなたを襲います!(多分)
一聴の価値はあるのではないかと思います。
ただし、神聖かまってちゃんの曲は、聴きすぎると神経がすり減る可能性が高いので、日常的に聴くことはオススメしません…(笑)
最後にオススメの4曲をのせておりますので、もし興味があれば聴いてみてください。
【神聖かまってちゃんオススメの曲4選】
※攻撃性の高い曲は選ばないようにしました
「僕は頑張るよっ」
「自分らしく」
「鳥みたく歩いてこっ」
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
【無気力大学生】就活目前の夏休みに思うこと
こんにちは、にいちゃんです。
私は文系大学に通う3年生です。
先日、前期の講義がすべて終わり夏休みを迎えました。
そろそろ就活がやってくる……。
私は最近やっと、就活について真剣に考え始めるようになりました。
そこで気づいたのは、就活を意識することには、無気力大学生のやる気を回復させてくれる効果があるということです。
いったいなぜなのか。
そのことについて、書きたいと思います!
❶【いままでの就活に対するイメージ】
いままでの私は、就活について次のように考えていました。
「大学は学ぶための場所なのだから、大学生は勉学に集中するべきだ」
「1・2年生の時期から就活を意識するだなんて、イヤラシイ」
したがって自分の頭の中では完全に、こうなっていました。
・勉学=大学生にとって最も優先すべきこと
・就活=大学に持ち込むべきではない、ヤラシイもの
❷【就活とは何か】
しかしながら、これは大きな思い込みでした。
なぜならば、
就活について考えるということは、
自分の将来や人生について考えるということであるからです。
❸【就活と主体性】
大学においては主体的な学びが求められます。
主体的な学びは、いかに可能になるのでしょうか。
おそらく、主体的に学ぶためには、自分の人生に軸をもつことが必要であると思います。自分の将来を見据えた、その人なりの軸です。
卒業後どのような進路に進みたいのか、
社会に出たら、自分はどのような人生を歩んでいきたいのか、
どのような生き方を望んでいるのか、等。
将来を意識するということは、その人が、自分の生き方を、責任をもって選択することを意識することだと思います。
いわば、就活への意識は、その人の「主体性」への意識を呼び覚ましてくれるのだと思います。
(主体性=人生の軸+責任)
❹【無気力学生と「当事者意識」】
私は大学2年の頃から「スチューデント・アパシー(無気力学生)」で、
何のために勉強しているのか分からず、やる気が起きない状態でした。
原因は、「自分の人生に対する当事者意識の欠如」だったと考えています。
何をしても甲斐がない。なにもかもが無意味に感じる。
そのような感覚でした。
というのも、今までの私は、将来について具体的に考えることを避け続けて、
自分の人生に対してすらどこか他人事で無責任な、何も考えないような生き方をしていたからだと思います。
今回、就活について考え始めたことで、そのような自分に気づくことができました。
【おわりに】
このように、就活への意識は大学での学びを充実させるためにも重要であるということに、最近になって気づくことができました。
私は就活を意識することによって、
いままでの自分が、いかに「何事にも無気力・他人事」であったかということを、自覚することができました。
また、そのことを認識し、「主体性」と自分の人生に対する「当事者意識」を新たに心がけようと決意したことによって無事に、無気力学生は、学びに対するやる気を回復することができました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今年は、実り多き夏休みにしたいと思います。
ブログをはじめました!
はじめまして、にいちゃんと申します。
ブログ「にいちゃんの日記」を始めました!
私は現在、文系の大学3年生です。
文章でアウトプットする練習を積むために、このブログを開設いたしました。
ここでは趣味・勉強のことなどについて、色々書いていこうと思います。
楽しい記事を目指してがんばります!
応援よろしくお願いいたします。