「幼さ」の憂鬱、その構造
こんにちは、にいちゃんです。
今回は、高校時代に感じていた自身の「幼さ」からくる憂鬱について書こうと思います。
【目次】
1.自分の感じていた「幼さ」
当時、私が日ごろから感じていたことは
「周りの学生は大人なのに、どうして私はこんなにも幼稚なのか」
「私は人間として大切なものが欠けているのではないか」
ということでした。
具体的に、私が感じていた「幼さ」とは、
・自主的に勉強の時間を作るなどの、自己管理ができない
・周りの人への配慮が欠け、自分のことしか考えていない
・他の学生と友好関係をうまく築くことができない
・自校の伝統、「不羈独立」「自由」などの精神に魅力を感じない
・学校・クラスへの帰属意識のなさ
・不平ばかりを言い、主体的にはたらきかけることをしない
・社会問題に対する関心も低い
などです。
つまり私は、自分がどう思われるかを気にしてばかりで、つねに受け身で主体性がなく、自己管理能力もない。他力本願な「甘ったれ」であると感じていたのです。
2.「幼さ」からくる劣等感
それに対して周りの人たちは、豊かな対人関係を築けている、自立している、自己管理能力が高い人が多かったのでした。
私が通っていた高校は、いわゆる進学校でした。
あくまでも主観なのですが、なぜだか勉強ができる人は、人間性のレベルも高い傾向にありました。今思えば、私はとてもいい人たちに恵まれていました。
しかしながら、まわりが優れた人であればあるほど、自身の幼稚さを痛感することも多くなります。そのたびに私は、「自分は人間としてダメなのだ」と、劣等感にさいなまれるようになりました。
自分が非力であること、怠慢であること、自己中心的であることなどを悔やみ「なぜ自分はこうなのだろう……」と、くよくよと……(笑)
しかしその一方で、「このままじゃいかん!」とも思っていたのです。
3.「幼さ」から脱却できないその原因
「自分を変えるぞ!」と、意識の上ではそう考えていました。
「もっと大人に」、「自立した人間に」、「他者をおもいやれる人間に」
行動にも移しました。
例えば、他人に関心をもとうと、級友の誕生日を祝ってみたり、
自立した人間になるために、大学受験に向けて自主的に学習計画を立てたり、
他者との協調性を身に付けるために、学校行事のリーダー役に挑戦したり。
しかしながら、そうしよう、そうしよう、と頭だけで考えて動いてみても、なかなか自分の「甘ったれ」心理を根本から変えることはできませんでした。
現に、大学受験は自分で自分を律することができずに、学習を進められないまま、受験を終えてしまいました。
どうして「幼さ」からは、なかなか脱却することができなかったのか?
重要なのは、このような「甘ったれ」「幼稚さ」は、本人の意志のみによって変えられる問題ではないのだということです。
これはあくまでも私の考えなのですが、
「幼稚さ」の原因は、その人の根底にある「不安」の強さや自己肯定感の低さ、そして、甘えていられる環境にあるのではないかと思います。
4.「幼稚な自分」を責めると悪循環に陥る
その人の「不安」の強さや自己肯定感の低さとは、一言でいえば、「自己価値への疑念」のことです。
「幼稚さ」の原因が「自己価値への疑念」にあるのだとすれば、その人にとっての「自己価値」を上げることができなければ「幼さ」から脱却することはできません。
したがって、自らの幼稚さを悔い「自分はダメなのだ」と自分を責めれば責めるほど、自己価値の認識は低下していき、「幼さ」からの脱却からは遠ざかってしまうということになってしまいます。
「幼稚さ」→「自分を責める」→「自尊心が下がる」→「幼稚さの増強」→「自分を責める」→‥‥‥
このように、一度「幼さ」の憂鬱にハマってしまうと、簡単には抜け出すことのできない悪循環に陥ってしまう可能性があるのです。これが、「幼さ」の憂鬱の構造なのではないでしょうか。
おわりに
私は今もなお、「甘ったれ」から脱却できていないと自覚しています。
それでも、自尊心を少しでも高めて、自立した人間になれるよう、日々小さな成功を積み重ねることを意識したいものです。
なぜ「幼稚さ」の原因が、「不安」の強さや自己肯定感の低さ、甘えていられる環境にあると考えているのかについては、今回書くことができなかったので、またいつか書けたらいいなと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。